トピックス
・東日本大震災復興支援活動
  子どもたちの笑顔と輝く未来のために、息の長い復興支援活動にとりくみます。
○東日本大震災災害救援カンパ
  • 4月から岡山県内の幼稚園、小学校、中学校の教職員へ呼びかけて実施
  • 連合の呼びかけに応じて、街頭カンパへの参加
○災害復興支援ボランティア活動
  • 3月末から岩手県に派遣
活動内容は、側溝の掃除、家屋の高圧洗浄、泥だし、消毒、避難所支援活動等

第1次3/30 〜 4/ 8岩手県上閉伊郡大槌町備北地区担当執行委員K
第2次4/15 〜 4/24岩手県上閉伊郡大槌町備南地区担当執行委員Y
第3次4/23 〜 5/ 2岩手県上閉伊郡大槌町備前地区担当執行委員G
第4次5/ 9 〜 5/18岩手県大船渡市備前地区担当執行委員U
第5次5/17 〜 5/26岩手県大船渡市備南地区担当執行委員S
第6次5/25 〜 6/ 3岩手県大船渡市本部 書記長
第7次6/ 2 〜 6/11岩手県大船渡市美作地区担当執行委員H
第8次6/26 〜 7/ 3岩手県大船渡市備南地区担当執行委員F
第9次7/2 〜 7/ 9岩手県大船渡市美作地区担当執行委員K
第10次7/9 〜 7/ 16岩手県大船渡市備前地区担当執行委員G
第11次7/23 〜7/ 30岩手県陸前高田市津山・中学校教員M
第12次8/14 〜8/ 20岩手県陸前高田市東備・小学校教員K
第13次8/20 〜8/ 27岩手県陸前高田市井小・中学校教員K
第14次9/3〜 9/ 10岩手県大船渡市本部 副執行委員長
第15次9/10 〜 9/17岩手県大船渡市本部 組織部長

・夏季休業期間中は、福島県・岩手県にて、学校現場に勤めているものだからできる、子どもたちへの支援をしています。

第1次

7/23 〜 7/27

福島県郡山市

岡山・中学校教員S

備南地区担当執行委員F

久苫・小学校教員F

津山・中学校教員O

第2次

8/25 〜 8/29

岩手県宮古市

本部 委員長

備前地区担当執行委員N

倉都・小学校教員H

津山・小学校教員N



・東日本大震災現地ボランティア(3)
岡山県教職員組合備南地区協議会執行委員Fさんの、福島県郡山市での活動報告です。(期間2011年7月23日〜7月27日)
  子どもたちの学習支援,心のケアということで迷わず手を挙げたボランティアであったが,とにかくわれわれ第2タームが福島初のボランティアチームということで情報が少なく不安も大きい中での参加であった。マスクはどんなものが必要なのか長袖はいるのか・・・。福島に入る前は放射線や安全面での不安も大きかったことも確かであった。しかし,福島の地に降り立った時,市民の方々はまったくそのような装備をしていなくて驚きであった。福島第一原発から半径20q圏内はもちろんであるが,半径60q離れた福島市や郡山市でも決して放射線量が低いわけではない。しかし,人々の話を聞いていると様々な不安と葛藤を抱えながら日々を生きていることが実感として感じとれた。
  初めて顔を合わせた岡山県チーム4名は,微力ながらも「福島の子どもたちのために何かできることを」という思いを込めて参加していた。この熱い心を持ったチームならいい支援ができると確信できた。およそ100世帯を抱える仮設住宅に隣接している稲川原集会所がわれわれ岡山チームの活動場所である。集会所は当然のことながら出来たばかりの新しい建物であるため,中は長机がふたつと椅子が5脚程度の備品しかない。満足な学習環境が整っていなくても子どもたちは一生懸命に学習に取り組んでいた。
  集会所に来る子どもたちは3才から中学3年生まで幅広い。みな夏休みに入ったばかりで宿題を持参しては,長机からはみ出さないばかりにノートや夏休みの友を広げて一生懸命に問題を解いている。岡山県チーム4名は小学校2名,中学校2名の4名であるが,自分の専門外の学習にも一緒になって,調べたり解いていったりした。午前中は9時から11時ごろまでが学習支援の時間。午後は,「室内での遊びをしよう」ということで、しっかりものの3年生の提案でハンカチおとしやフルーツバスケットなどのゲームを行った。岡山チームとしては,集会所での活動のスタートでもあるので,流れをつくろうという気持ちで一致していた。そこで,午前・午後の時間割を大まかに決めて,集会所での約束作りを行っていった。子どもたちも進んでルール作りで意見を発言していき,初日に集会所の大まかなルールを作ることができた。それを子どもたちの手で画用紙に書いたものを掲示して,自分たちの場所という意識を持たせた。
  子どもたちとの学習や遊びの中から放射能という見えない恐怖から避難していることは感じられない。無邪気な笑顔や室内で汗だくに遊んでいる姿をみるとそうしたことは忘れてしまいがちだ。しかし,ふとした会話から「早く川内村に帰りたい」「原発はいやだ」・・・と本音がこぼれる。私たちとの時間はたった3日間。どれだけのことができたかわからない・・・。けれど,この子たちが望むように早く自分たちの村川内へ帰ることができるように,健康被害なくすくすくと育って欲しいと強く願うばかりであった。

  福島から郡山までの移動の電車で学生と話をした。地震があった時に電気も水もとまってしまった。放射線の危険から家から出ないように言われていたものの出ないわけにいかなかった。20q圏内の健康診断が優先なのでしかたないけれど、早く健康診断を受けたい。未来ある若者が淡々と語るその姿に胸が締め付けられる思いだった。
  タクシーの運転手さんのお話。もう,ピークは過ぎているけどね。福島も線量高いのは,政府も知っていたけど,パニックになったらいけないから黙ってたんじゃないの・・。はっはっはっ・・・。陽気に笑う運転手さんのおしゃべりも聞いているとつらくなる。

  広大で美しい自然に恵まれた福島県。米や牛,岡山県と同じく果物がうまいことでも有名であるという。早く,もとの美しい自然豊かな福島に戻ってほしい。そしていつかあの子どもたちが元気にすくすくと育ち,大きく育った姿を見てみたいと思った。

・東日本大震災現地ボランティア活動報告(2)
  第6次震災ボランティア(期間:2011年5月9日〜5月18日)の一員として、岩手県大船渡市大船渡町で活動した、岡山県教職員組合執行委員Uさんの活動報告です。
  全部で7軒。7日間の日程で私たちボランティアが、片づけを手伝えた家の数だ。この数は多いのか、少ないのか。あの津波で何千何万という家々が被害に遭い、多くの方々が命を落とした。今みんなで少しずつ、本当に少しずつ片付けている。私たち18人のチームは毎日、「この家を住めるようにする」という目標に向かって作業を続けた。全国から集まった初対面のなかまだが、不思議と「つながっている」という安心感があった。3日目の作業終了後、家の持ち主の方が「ボランティアの人がここまでやってくれるとは、本当に頭が下がる。」と自分の家を見つめながら言われたときには胸が熱くなった。第6次の自分たちが入る前、第5次のチームが一度この家に清掃に入っていた。自分たちはその後を引きついだ。テーマは「つなぐ」。私たちもつながっている。7日間の日程の中で、とても心に残る出会いがあった。ボランティアは要望があればできる限りのことをする。床下の泥出し、庭に積もった泥のかき出し・・・・。その家では、2日間に渡る作業の後、3日目に食器洗いを依頼された。私は「そこまでするの?」という思いをもちながら、その家にむかった。作業をするうち、その方が私たちと一緒に食器を洗う姿を見たとき、「この人は誰かと一緒に、とにかく一緒に、片づけをしたかったのかな?」と思った。ここに来てよかった、と思った。最終日、手伝いに入る自分たちに、とにかく何かお礼をとお茶やお菓子を出してくれるおばあちゃん。別れ際には涙を流しながら手を振ってくれた。「何かあったらまたあとの隊がくるから連絡してよ!」と言い、その方と別れた。震災で生き残った方々の心の傷も、少しずつ、少しずつ癒えていってほしい。そのための手伝いがまた何かできれば、と思う。
復興支援作業の様子復興支援作業の様子復興支援作業の様子
復興支援作業の様子復興支援作業の様子復興支援作業の様子
復興支援作業の様子

・東日本大震災現地ボランティア活動報告(1)
復興支援作業の様子   第1次震災ボランティア(2011年3月30日〜4月8日)の一員として、岩手県東和BC(岩手県釜石・大槌地区担当)にて活動した、岡山県教職員組合備北地区協議会執行委員Kさんの活動報告です。
  復興支援ボランティアで最も印象に残るのは、やはり、眼前に広がる被災地の風景です。メディアで報道される断片的な映像以上に悲惨で、まさに壊滅的状態でした。人々が活気にあふれ幸せに生活していたであろう街の姿は、見渡す限りがれきや流木で覆いつくされ、足の踏み場もありませんでした。
  私たちは、津波による被害が大きかった大槌町で、浸水家屋から家財道具を運び出し掃除をする作業を任されました。一日でも早く自分の家で生活していただきたいという思いとは裏腹に、水を含んだ畳やタンス・家財道具の運び出しは思いのほか重労働で、一日一軒を仕上げるのがやっとでした。けれど、家の持ち主の方からはもちろん、町内ですれ違う方々から「ありがとうございます、ごくろうさま」と声をかけられるたびに、元気が湧いてきました。被災された方々を元気づけなければならない私たちが、逆に元気をもらっている。これが、東北人の強さなのだろうか。それからというもの、私の口からはごく自然に「こんにちは。お疲れ様です。元気を出してね」という言葉が出るようになりました。
  ボランティア期間が終わり、東京へ戻るバスの中で震度6強の余震を体験したことも忘れられない記憶の一つです。現地では、昼夜を問わず余震はありましたが、立つことすらできない揺れを感じたのは初めてで、「無事に帰ることができないのでは」と、不安な気持ちになりました。
  教職員組合のキャッチフレーズは『つなぐ』。私自身、この貴重な体験を、分会そして支部へ、少しでも多くの大人や子どもたちに伝えていくことが、今私にできる『つなぐ』であろうと考えています。

復興支援作業の様子 復興支援作業の様子 復興支援作業の様子

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