OTUニュース
2017.06.14
「渋染一揆」に学ぶ


  岡山藩から出された被差別民衆に対する差別的な「お触れ(倹約令)」の撤回を求めて闘われた渋染一揆は、幕末の1856年早々から始まった。電話も車もない時代に、わずかな期間で藩内53か村の全てに連絡を回し、街道や河川に臨時の関所を設けるなど、藩側の厳しい警戒の中、1500人とも言われる人々が吉井川原に結集したのは驚きである。渋染一揆といえば強訴ばかりが強調されるが、そこに至るまでの寄合い、嘆願書の提出と差し戻し、そして強訴やむなしの判断と実行、最後は投獄された12人のなかまたちの釈放運動までを通して「渋染一揆」ととらえるべきであろう。
  この「一揆」のリーダーは、その折々によって少しずつ変わってゆく。そのなかに当時まだ二十代だった青年がいた。名を良平という。強訴の際、藩側との直接交渉に名乗り出た8人(強訴はご法度の時代ゆえ、藩側から首謀者と見なされればその後の極刑は覚悟しなければならない)のなかの一人である。2年間の獄中における厳しい取り調べや粗末な食事、劣悪な衛生環境等によって、釈放直後に33歳の若さで亡くなっている。
  良平さんのお墓は、彼が育ったムラを眼下に見渡せる山の中腹にある。非常に明晰な青年だったようで、彼の墓石には「資性深沈にして常に学を好み諸史に通ず・・・」と刻まれている。彼の墓前には、今も全国から「学び」を求めてやって来る人々が絶えない。
  江戸時代に全国で発生した一揆は約2000件。その多くは年貢の引き下げを求めたり、権力者の不正を糾したりするものであったのに対し、渋染一揆は人間の誇りをかけた闘いであった。また、強訴といえば農具等による武装や途中の略奪が常であったが、渋染一揆は非武装であり、強訴隊も整然と街道を歩いている。
  はるか160年も昔の闘いだが、そこから学ぶべき点は多い。渋染一揆学ぶ、のではなく、渋染一揆学ぶとする意味は、そこにあるのである。

(梶原洋一)



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